世界の共通語と数学とプログラミング言語を妄想

コペルニクスは1473年にポーランドで生まれて「天球の回転について」を”ラテン語”で著した。彼の没後ガリレオがイタリアで”二大世界体系に関する対話”、ケプラーがドイツで生まれて”新天文学”にてコペルニクスの説を補強する、これもラテン語で書かれている。当時は西洋共通語がラテン語であり、外交などでもラテン語が使われていたようです。

その後、ニュートンが1687年に”自然哲学の数学的諸原理”で物体の運動法則を説く、これもラテン語で書かれてある。ラテン語の時代はその後の18世紀まで続いたそう。

18世紀からは外交ではフランス語がその地位に上る。日露戦争ポーツマス条約や、第一次世界大戦パリ講和会議などもフランス語です。フランス語が外交の言葉であった時代は母国の言葉で学問をしている人が多くみられました。

 

今日日ご存知の通り英語が共通語です。政治も学問も。

外交を行うのには共通の言葉が必要ですし、学問を発展してきたのには共通の言葉が必要なのですね。

 

数学という学問を考えると英語が読めなくても数学することはできますよね。数学は英語や日本語とは関係ない、数式を使うので1+1の解は日本でもアメリカでも中国でも同じ。

 

まあ数学はいいや、言いたいことは伝わってると思う。。。

 

それでですね、プログラミング言語はどうなのでしょう?

今日日パソコンといえばATPC互換機です、プログラミングをするとき使う言語に世界共通といったものは必要ないのでしょうか?

私は大学の理工学系の大学で、卒業論文を書きました、画像処理系なのですがC++を使いました。

ほかの研究室ではFortrun、C言語、様々。当然、数値計算寄りの分野ではFortrunで、組込みや物理よりではC言語という組み分けがあることは知っていますが。

学問から離れて、Web系ではJavaやPythonやPHPをよく見かけます、もっと表面的なところではJavascript。

Windows上で動かすゲームのようなアプリケーションなどの話ではなく、より学問的なものでですよ、どうして統一されないのでしょう?そして良し悪しがあることも知っていますが、それでも、先ほど話た歴史の通り、プログラミング言語においては言語が定めたほうがより良いと思うのです。不思議に思います。

 

妄想でした。

 

 

 

 

「みて、デンシンバシラが生えてる」

小学生の頃、私の友達Kがそういって地面を指さした

それは地面から土を押し上げて育った、小さな小さな氷の柱で、それは

「これデンシンバシラっていうの?」

「そうだよ」

デンシンバシラと呼ぶらしい。私はそれが温かい昼間に溜まった水分が冷たい夜のうちにできる現象で霜柱ってお父さんから聞いたことがあるけれど、二人の中ではデンシンバシラということにした。

 

それから暫くして、私と、私のお母さんと、その友達と三人で歩いていた。

友達がまた「デンシンバシラだ」と言った。

私のお母さんは笑って、霜柱でしょといった。

確かに霜柱だけどデンシンバシラでもあって、私の中ではそういう現象が起こることが重要で、名前なんてどっちでもいいんだなって思っていた。

 

そんなことを思い出しました。

 

その友達とはもう10年近く会っていない。デンシンバシラは、伝わるんだろうか。覚えているんだろうか。

 

そんなことを思いました。

 

どうしてそこまで分かってる(らしい)のに、これは分からないの?

先輩は不思議。

先週か、先々週か、それとも先月か、いつだか忘れたけれど仕事中こんな感じの会話をした。

機器がシステムのネットワークに正しいIPアドレスに設定されているか確認する作業があったのですが、5分くらいで確認が終わった私に「先輩が早すぎない?どうやって確認したの?」と聞いたので。全部にPINGしてARPを見ました、と答えて、ARPとは何かとか色々聞かれて答えたのですが、そのとき先輩が「そもそもMACアドレスってよくわかんねんだよな」と

先輩はIPアドレスについては分かっているらしくて、MACアドレスがあることも分かっているらしい、なのになぜMACアドレスが分からない?

どうしてIPアドレスについては分かるのにMACアドレスについては理解できないんだろう。

ちなみに先輩はポインタでも同じことを言う、「そもそもポインタってよくわかんねんだよな」みたいに。コードの中では配列も使ってるしビット演算子も使ってるのに、どうしてポインタが分からないの?

コンピューターの基本的な、表面的なことの理解はとても簡単だと思う。私はCのポインタもネットワークの通信も難しいと思ったことはないしすんなり頭に入ってくる、SNMPとかOPENFLOWとかが分からないのって言うなら、仕様を知らないからだろうけど、先輩のMACアドレスとかポインタの件、ここまでわかってるのに、どうしてこれを分からないの?IPアドレスは分かるって、本当なの?分からない

万物理論を読んだ

万物理論とは

この世の物理法則全てを含有する、統一の理論。つまり、第三宇宙速度から私の明日の朝ごはんまで、この式一つで導くことのできる理論ということだと思います。

私が読んだのはこの本です、

 

www.tsogen.co.jp

引用:2055年、すべての自然法則を包み込む単一の理論――“万物理論”が完成寸前に迫っていた。国際理論物理学会の席上で3人の学者がそれぞれ異なる理論を 発表する予定だが、正しい理論はそのうちひとつだけ。科学系の超ハイテクな映像ジャーナリストである主人公アンドルーは、3人のうち最も若い女性学者を中 心にこの万物理論の番組を製作することになったが……。学会周辺にはカルト集団が出没し、さらに世界には謎の疫病が蔓延しつつあった。『宇宙消失』で年間 ベスト1を獲得し、短篇で3年連続星雲賞受賞を果たした、現役最高のハードSF作家が贈る傑作! 

 

SF小説です。ふんわりした紹介をすると、難しい涼宮ハルヒの憂鬱のような感じだと思う。

 

この話の中で、汎性のアキリ・クウェールという人がでてきます。

アキリ「男性的女性的を除去することはノイズを減らしているに過ぎない」

アキリは、生化学的なトリックに左右されるのが嫌で、男でもない、女でもない、人工的な汎性になる選択をした。

 

こんな人も出てくる。自発的自閉症協会。この話がとても興味深い。

「愛情とは、自分が愛している人々を、自分自身を理解するのとほとんど同じかたちで理解できるという信念にほかならず、その信念を持てば脳から快楽という報酬をもらえるわけです」

「わたしたちもトランスセクシュアルとまったく同様、不一致に悩まされているのです。体と脳ではなく、愛情を求める衝動と、それを得る能力の欠如という不一致に」

彼らは愛情を求めてもそれを得ることのできないジレンマを、故意に自閉症を発症させることで解決しようというのです。

 

皆さんこれについて、どう思うのでしょうか。

私はアキリのことは理解できます、アキリとは違いますが私は自分の身体的な性別とジェンダーが一致しているとは思っていないので、そんなに簡単に変えることができるのなら、変えてもいいかなって思うのです。それだけ。

 

ですが、自発的自閉症協会のことは、理解しているとは言えない、、、と思う。どっちも同じことですよね、性転換も、自発的自閉症も、状態の不一致を解決したいだけ。

 

この本を読んでいたとき、甘えてるだけじゃないの?って思いました。ですがその考えはすぐに論破されて、わかるんだけどでも、ちょっと理解したくない、どうしてかなぁ

 

 

東急田園都市線にのって本を読んだ。

東急田園都市線にのって本を読んだ。以前文学フリマで買った小鳥遊さんのWYSWING、詐欺師な高校生の話、社会的にタブーなことでも正義とか悪とかではなくてやりたいからやるみたいな話は好きです、あんまり頭に入らなかったけれども。
続けてフェリス女学院文芸創作ほしのたねの悪い女。こういう本を読むと、創作意欲が沸々と沸いてくる自分は単純です。今はマクドナルドでこれを書いてるんですけど、隣でお姉さんがthinkpadでなにかカタカタしていて、Macbookじゃないところがとても新鮮。
自分もノートパソコン持ち歩いて、フラフラ寄ったお店でブログ書いたり写真を整理したりしたい。

”少し変わった子あります”を電車で読んだ 感想など

私は4月に関東に来たのですが、関東には沢山電車が走っていて驚いています、色々な会社、色々な電車、色々な路線、乗ってるだけで楽しくなってきます。電車に乗りながら、本を読んでウトウトして、寝て、起きて適当に降りて喫茶店とかに入って本を読んで読み終わったら帰るということをやってます。

 

少し変わった子あります 森博嗣 文藝春秋

 

話しは大学教授小山の後輩荒木が行方不明になり、小山は以前荒木が通っていると話していた‘’おかしな店‘’の話を思いだす。小山は荒木の手掛かりを探してその‘’おかしな店‘’へ行くことから始まる。

 

解説を除いて二章残したところまで読んで、読みながら書いています。
森博嗣さんといえば、犀川と西之園のすべてがFになるシリーズ、真賀田博士の四季シリーズ、それと新書でひとつかふたつ読んだことがあり、私の好きな作家さんの一人です。登場人物がカッコいいです。
この本の読みどころは、結婚を告白した女性と嘘をついた女性に出合ってから、小山の孤独の捉え方の変化というか、表現が具体的になっていく孤独感。次はどんな人が出てくるんだろう、どんな話しが、という感じにワクワクしながら読んでいます。
そして荒木さんが行方不明になっているにも関わらず、おかしな店に通う小山さん。小山さんは自分本位に、自分の都合よく捉えてるということに気づいているのに、都合の悪いことから目を背けていることは忘れていて。なぜ行方不明の荒木さんが通っていたお店に通うのか、‘’ただ少し変わった子あります‘’の4の前後で小山さんの中では孤独がとても具体的になっていく、小山さんは食事中の仕草に拘りがあるように、孤独にも拘りがあるようで。
そういえば、私は人が下品にご飯食べるのが少し興奮します、ジブリ作品のラピュタの海賊たちのように堂々とむしゃむしゃがつがつ食べるのとか。嘘かもしれないけれど森博嗣さんの作品を読んで開花した感性な気がします。
この後そろそろ展開があると思う、どうなるのか楽しみだけど明日読みます。

 
 

最後まで読んで
ラストはスムーズに進んで、結局荒木さんと、小山さんはどうなったのか、殺されたのか、自殺したのか、どうなったのかは言及されていないけど、中江有里さんの解説を読んで、光の端っこに立ちたくはないなぁって思いました。

 

何人目か忘れたけど、抽象的に話をしたい子が好きです、あの話し方が。あと孤独という抽象的なものを具体的に文字に起こしていくところが気に入りました。ストーリー的には、‘’おかしな店‘’に危機感を持たない小山さんは不自然でした、私が孤独を理解していないからでしょうか。

 

西之園萌絵インパクトが如何に協力だったか再認識させられて、犀川先生と西之園さんの話をまた読みたくなります。

 

 

無題

今日からブログをはじめようと思います。

私は何度もブログを書いては消してを繰り返したことがあります、理由は家族に見られて。

このブログは消さないで更新し続けようと思います。

4月から一人暮らしを始めたから、誰かに覗かれる心配はないからね。それでは、よろしくおねがいします。